日々群青色

フリーランスでこの先生きのこるには?を考えつつ特に関係の無いことを考えるブログ

MENU

歳上の男性に嫌われる理由を考えてみる(ついでに僕がフリーランスになって今に至るまで)

f:id:gunjyou:20151124234503p:plain

Font:Glametrix font by gluk - FontSpace

 

僕はとにかく歳上の男性から受けが悪い。

だからといって歳上の男性以外から特に受けが良いというわけでもないとは思うが。

 

半年くらい前の話、取引先の人との飲みの席で「君は立ち振る舞いがなっていない」と言われた。

そのときは「ですよね」と曖昧な笑みを浮かべながら適当に流した気がする。

 

仕事をしていると嫌でも歳上の男性と関わる場面ができる。

だが、年々歳上の男性に対する苦手感・嫌われる確率が高くなっているように感じる。

結構致命的な気がする。実際致命的だった。

 

 以下に話し逸れまくりな回想をしつつ年代別に嫌われていた理由を考え思考を整理してみた。

書いているうちにもう何度目かわからない意識の再確認ができた(と同時にパラドックスに陥っている)ので結論を最初の辺りの項の「はじめにもしくはおわりに」で書きます。なので残りの文章は長い長い蛇足です。

※この記事での「歳上の男性」の定義は

学生時代→いわゆる「先輩(同学年ではない男性)」

社会人時代→10~20程度歳上の男性

とします。

※幼少の頃からずっと当たり前に消費してきた「アニメ」については書くときりがないので割愛。

はじめにもしくはおわりに

■自分の性格における特徴の一部

  • 社会のマジョリティであろう構成員と比べて倫理観・道徳観がかなり低い
  • これによって「許容できる物事」のボーダーラインが低くなっており一見「優しい」「穏やか」という印象を持たれる(実際に優しい人間であるかどうかは観測側に拠る)
  • この「ボーダーラインが低い」という意識により「自分より倫理観・道徳観が低い行動をしていると認識した人間」をその行動に至った経緯等も考慮に入れつつも結果許容できないことが多い
  • 特に同性に対してこの傾向が顕著に現れる(恐らく「男性」というおおまかな括りに対しての共感意識に起因する。これを以って「差別的だ」という観測をされても仕方ない)
  • 年齢性別に関係なく尊敬できるし逆に尊敬できない(上記に矛盾する感じがするがそういうもんです)
  • ある言説に対する判断基準の中で「その人物の社会的地位」が占めるウェイトが低い

この性格的要素の結果

  • 「私はあなたより年齢が上である。なので敬意を持ってください」という心理が論理的意味以上をもたない。そこまで共感できない。
  • 「私はあなたより社会的地位が上である。なので敬意を持ってください」という心理が論理的意味以上をもたない。そこまで共感できない。
  • 「歳下だから鷹揚に扱っても良い」という心理が論理的意味以上をもたない。そこまで共感できない。
  • 書くときりがないので省くが、経験上、主に上記三つの傾向が男性に強い。特に体育会系思考かつ経営者や役員レベルの人間はこの傾向が強いことが多く自尊心やプライドに敏感である。しかし僕はこの心理に無条件に共感が出来ないので仕事上丁寧に振舞ってるつもりでもどこかに綻びが出る。そこを相手が敏感に察知することにより不協和音が生まれるのであろう。
  • 他「年齢を積み重ねる事により至る凄み」というのは色々な物事で体感しつつも「Aさんが5年で至ったBというもの」と「Cさんが30年で至ったBというもの」のクオリティが同じであれば両方とも賞賛できるので悪い意味でもいい意味でもえこ贔屓できていない。
  • まぁ「コミュ障」と一言でバッサリまとめてしまえばそこでおしまいである。
  • 寝る前に思いついた思考が大事なポイントのはずなのに思い出せないので思い出せれば加筆。

小学生時代

通っていた小学校は田舎の一学年が30人いないくらいの規模だった。

入学したら特に低学年の間、先輩女子に可愛がられた。逆に先輩男子には度々いじめられそうになった。

先輩男子がいじめようとしてくる度に先輩女子が「なにしよんよ!」って感じで守ってくれた。

思えばこの原体験から「歳上の男は横暴だ」という苦手意識が出来ていたのかもしれない。そしていじめようとしてくる相手に対して自分自身は特に何かしらの対応をしなくても守ってもらえる環境はよくなかったような気がする。

このときの僕の雰囲気や性格はというと髪は女の子のように伸ばしていて中性的、小柄、お調子者で活発だった。4年生くらいまでは同級生と遊ぶ以外にも先輩女子の団体がよく家に訪れて女装させられていたのを覚えている。それについて特に嫌だとか思ったことはなかった。

このとき歳上の男に嫌われていた理由はごくありふれた

なんか弱そうなのに生意気な感じのするやつがいる→いじめてやろう→先輩女子に守られる→余計恨みを買う

というループだと思う。

中学生時代

複数の小学校から来た生徒で数クラス編成の中学校だった。

小学校と同じ感じで調子に乗っていたら入学して二ヶ月もしないうちに他校の小学校出身のヤンキーに目をつけられていじめられ……かけた。いじめられかけたけど、僕と同じ小学校出身のヤンキー君達が他校のヤンキーと仲良くなっていてちょっと冗談めかしながら「やめとこうぜー」みたいに有耶無耶にしたりで散発的な嫌がらせ程度で済んでいた。その嫌がらせについても仕掛けてきたらちょっと過剰に反撃していた。そうしているうちに「なんか関わったらめんどくさい浮いてる子」のようなポジションになった。小学生時代中のよかった友人がいじめをするヤンキーグループと仲良くしているのが嫌で距離を置いた(ここで仲のよかった友人経由でヤンキーと仲良くするという選択肢を選んでいたら全く違ったかもしれない)

この時期、同時にファンタジー小説にはまった。はてしない物語、ゲド戦記、不思議の国のアリス、ナルニア国物語、等々……でも一番のめり込んだのはたまに話をする程度だったK君から借りたフォーチュンクエストだった。

新装版フォーチュン・クエスト(1) 世にも幸せな冒険者たち<新装版フォーチュン・クエスト> (電撃文庫)
新装版フォーチュン・クエスト(1) 世にも幸せな冒険者たち<新装版フォーチュン・クエスト> (電撃文庫)

 何故か最初に読んだのは8巻。海洋冒険編の時です。そこから自分で1巻から買って読み始めた。フォーチュンクエストは今読むと全然違う感想になりそうだが当時の僕にとってはパステル達がファンタジーの世界で楽しそうに一生懸命冒険してパーティーが成長していく感じが大好きで心に突き刺さって何回も何回も繰り返し読んだ。

読んでいるうちにあまりにも世界に深く傾倒してしまって「今自分の生きている世界は本当の世界ではない。今見えている世界は虚構で、眠って起きたらきっとフォーチュンクエストの世界にいるはずだ」と半ば本気で考えるようになった(カプグラ症候群?とは違う何かこういった思考を指す言葉があったような)。

そして学校も休みがちになりレジャーシートを敷いて河川敷でフォーチュンクエストを読んで(他の本を読む事もあった)過ごし、寝る前にフォーチュンクエストを読んで現実世界を嘆いて泣きながら寝落ちする日々だった。

当然のことながらこんな痛い思考の人間なので「教室」という環境では友人とも疎遠になっていった。

 

……話が逸れた。歳上男性の話だ。

そんな現実逃避をしながらなんだかんだで部活はテニス部に所属して三年間続いて二年生からは団体戦の三番手という微妙なポジションで県大会をそれなりに勝ち進んだりあっさり負けたりしていたっぽい。

テニス部の先輩には「入部初日にグラウンド50周させられた後大泣きした奴」という印象が強かったらしく、「なんかこいつ扱い辛い」みたいな微妙な対応をされていたらしい。「らしい」とか「ぽい」というのは僕の中学の記憶が酷く曖昧であり現実に関する興味が乏しかったのに起因する。

高校生時代

そして高校に進学。高校は寮のある遠いところの高校を選んだ。特にその高校の先に目標があったわけでもなく、中学の僕を知っている人が多いであろう近くの高校が嫌だったという軽々しい理由だ。あとはなんか推薦で楽にいけたから。

僕の中学校からそこに進学した生徒はゼロ人ではなく僕ともう二人が進学していた。

そして、初めての寮生活というものが始まった。

他の寮は知らないが僕の高校の寮は基本的に「三年生もしくは二年生と一年生の相部屋」というシステムだった。とりあえず遠くに行きたいという考えで下調べも何もしていなかったのでそんなシステムがあることは知らなかった。馬鹿である。

そして運のいいことに部屋割りのくじ引きで「鬼のY先輩」と言われている三年生との相部屋になった。なんか二年生の先輩に同情された覚えがある。最悪である。

ここまで「先輩」というものに対して接近戦の経験がほぼない僕は相部屋という超近距離戦の中でどう過ごしていいかわからなかった。

そして「とにかく空気になる戦法」を選択した。

 

……空気にはなれなかった。

寮において先輩の命令は絶対である。「カップ焼きそばを作れ」「マッサージしろ」「朝何時に起こせ」等々、数々の命令を淡々とこなした。

ストレスで眠っているときに息の仕方がわからなくなる症状が出始めた。今思えばあれは過呼吸症だったのかも知れない。

他の一年の寮生はそんな環境の中「先輩と後輩」というヒエラルキーのもとそれなりに良好な関係を築いていたが僕は相変わらず上手く振舞えず音声認識ロボットのような対応しかできずにいた。

そして一年生には恐怖のイベント「説教」が待ち受けていた。

「説教」というイベントは不定期に深夜に寮で行われる。深夜の真っ暗な寮の一室に一年生が集められる。そして周りを先輩達が囲んで「正座しろ」と言われる。

大体このイベントのパターンは決まっていて、全員正座をしたら先輩のなかの誰かが「おい、今何で正座ささられてるかわかっとんか」と静かなドスの利いた声で言うのが慣わしだ。

そして適当な一年生に「○○、なんでか説明してみぃや」と振る。

ここで大体の場合二通りの返答「すみません、わかりません」「何か失礼なことをしたのだと思います」になる。

そうすると先輩が「この前、誰某が学校ですれ違ったときに挨拶しなかった」「誰某の朝食堂に来る時間が遅い」「誰某のいびきがうるさい」と口々に責め立てはじめる。もう言いがかりレベルのようなことまで責められる。時々ヒートアップした先輩の足が飛んでくる。そんな時間が大体二時間ほど続く。

僕も「挨拶をしなかった」という理由で責められたことがある。普通に考えて先輩が近くにいたのを気づかなかったとかよく起こり得る話なのだが向こうが認識していたのにこちらが認識していなかった時点で有罪である。「すみません」と言うしかない。

 

ここで、最初の辺りに書いた「運のいいことに」が効果を発揮することになる。

僕の寮内での先輩からの評判と言えば「暗くて、先輩と仲良くしようとしない奴」だったのでよく思われてなかったのだが(これはよく同級生から「そんな感じで見られてるよ」と言われてたから知っていた)、僕が責められていると「鬼のY先輩」が野太い声で「おい、もうやめとけ。俺の部屋の奴ぞ」と言うとそこで治まる。権力は権力に弱い。

結局「鬼のY先輩」とは卒業まで「仲の良い先輩後輩」にはなれなかったが僕にとっては他の先輩との部屋になるよりましだったのかも知れない。

 

まぁ、寮はそんな感じで時間が進んで行って「説教」という野蛮な文化は僕らが三年になったときに「気に入らなかったら個人に注意すればよくね?」「だるい」という理由で廃止された。

 

一方、学校での僕はと言えば中学からのしがらみがないクラスでぼんやりと過ごしていた。入学初日に前の席に座っていたKくんが気さくに話しかけてきてそこから話をする程度の友人はたくさんできていたけれど誰かしらに遊びに誘われても気が向いたときにたまに遊ぶ程度だった。教室でのキャラ的には三年間「普段大人しいけれどいきなり予想不可能な行動をとって注目されたり笑いをとったりする変な奴」的ポジションを通した。実際変な奴だったのだと思うが変わり者扱いされることで楽をしていた。

勉強は普通にしていた。数学が嫌いだった。

 

この頃はまった本といえば「究極超人あ~る」だったりした。パトレイバーは知っていたのだけれどあ~るは古本屋を漁っていたときに初めて知った。

究極超人あーる 全4巻完結(ワイド版) [マーケットプレイス コミックセット]
究極超人あーる 全4巻完結(ワイド版) [マーケットプレイス コミックセット]

光画部のゆるーい雰囲気にあこがれて、さんごが理想の女の子になったりした。

 

「今日から俺は!!」も古本屋でなんとなく読んではまった。嫌いな登場人物がいない稀有な作品。特に谷川が好きだった。

今日から俺は!! オレが秘密兵器だ編 (My First Big SPECIAL)
今日から俺は!! オレが秘密兵器だ編 (My First Big SPECIAL)

 

とりあえず古本屋で漫画やラノベを漁るのがこの頃の趣味だった。相変わらず現実逃避していた。本を沢山読んでいたら将来自分は出版社に行くのだという確信がどこからともなく生まれた。ちなみに客観的に見て絵はデッサン的意味で上手くなかった。抽象画みたいな絵を描く人間だった。

 

部活は何個か見学に行った末なんとなく入ったボクシング部に行ったり行かなかったり。ボクシング部は理由は分からないが先輩後輩の関係がかなりゆるくて何をするのも個人の自由な雰囲気だったのでそれなりに楽しんだ。

 

他にこの頃変わった出来事といえば、父と進路のことで大喧嘩して生まれて初めて殴り倒した次の日に父がくも膜下出血で亡くなったことと、ある日恋人が事故で亡くなったことくらい。

大学時代

よく覚えていない。気がついたらGWで自分がどうやって高校を卒業して大学に入学して友人ができたのか記憶から抜け落ちている。記憶がないことについて当時も今も特に気にした事はない。

麻雀とゲームセンターとバイトと友人の家でRPGやりこみと読書と映画と悪友と暗躍ごっこと服を買いまくった日々だった。バイト色々したけど最後は「打倒陸路!」なんて言っちゃってる出版社で社内サイトの更新とか校正とかしつつたまに紙面のデザインをさせてもらっていた。

大学では先輩という人種とほぼ関わる事がなかったので平和だった。

バイト先ではその建物でのトップの役職の人に、よくある「聞こえるように嫌味を言う」といういじりをされて最初はそれなりに対応していたけれどめんどくさくなってノーリアクションを通していたら僕にとある変態的趣味があるという噂を流されて、別の人からそれについて聞かれてめんどくさい思いをした。結局殆どの人はネタだと思ってたので笑い話で済んだが、その手のいじりにどう対応していいのかは分からないままだった。

ある日、仲良くしていたチャキチャキの社員のおねーさんがトップを怒鳴り上げて(別にいじりについて困ってるとかは一言も言ってない)それからはいじりはほとんどなくなった。

かなり平均年齢の若いとこだったのでそれなりに上手くやれててデザイン科の主任に紙媒体のデザインを教えてもらったり空き時間にWeb関連の勉強をしてここでやっと基礎的なことが少し身についた。

そのまま卒業。

社会人時代

バイトしていた出版社から「うちで働く?」って言われていて、その時自分がやりたいことと近かったのでそのまま入社した。入社前時点で超大手ではない出版社は大体給料が安いことや労働環境がそれなりにブラックなことは承知していたが生活成り立つ給与ならば別にいいくらいの考えだったので当初は特に不満もなかった。

入社したのと同時期くらいに部署の再編成があって僕は社内サイトの企画や運営からデザイン・開発までを手がける部署へ配属された。実際の業務はWeb8:DTP2くらいでWeb展開も視野に入れた紙面作りの時はそちら側も組むことがあって、最初のうちはやりがいを感じていた。

他にもやることは多岐に渡り、デザイン、更新、更新ツールの開発、サイトの表やら裏で動くプログラムの刷新、アルバイトを含むほかメンバーへの作業分担・管理・愚痴を聞く係り等々。もちろん僕一人ではパンクするのでここではベテランアルバイトのUさんの功績が大きい。(Uさんは最後まで謎の多い人だった。当時30代前半の女性だったのだが、結局僕が退職する少し前にTOYOTAに語学関連の実力を買われて転職した)

直属の上司は役割がはっきりしていて「業務の報告を受けて問題があれば調整する」「企画等さらに上の役職の人の承認が必要な場合に交渉する」辺りが役割で一見現場に対しては放任主義だった。

目標の一つに「自社サイトのPVを月間100万PV以上に」があったがそれは予想より早く達成された。

そうやって様々な業務をこなしつつ出版社の離職率の高さを眺めつつ日々は過ぎていった。この頃は深刻に悩んではいなかったが社内の色々な人と関わるなかでやはり歳上の男性と上手くコミュニケーションがとれない傾向はあった。それより一番大きなストレスだったのは通勤で車で30分もかからない距離にもかかわらずほば毎日通勤中に強烈な腹痛に襲われていたことだった。今思えばあれは「過敏性胃腸症候群」だ。

 

ちなみにこの時代の僕はプライベートでは年齢制限に関わらず美少女ゲームと呼ばれる媒体とモーショングラフィックにはまっていた。

クロスチャンネルをプレイしてショックで生きているのが辛くなって数日会社を休んだり、まぁ成長がなかった。ここから田中ロミオと片岡ともに傾倒していく。

CROSSCHANNEL ~For all people~ (限定版) (特製ブックレット、特製缶バッジセット 同梱)
CROSSCHANNEL ~For all people~ (限定版) (特製ブックレット、特製缶バッジセット 同梱)

 

ある時、僕の所属している部署にMさんという30台後半の男性が中途採用で入社してきた。Mさんは前職でゲーム開発をしていたそうでそこのチーム解散を機に転職してきたらしい。部署内ではプログラム関係の能力を期待されての採用だったようだ。

思えばこの頃辺りから僕に対する諸々の風当たりに目に見えて変化が出てきた。

Mさんは社内政治大好き人間でとにかく暇があれば色々な人とコミュニケーションをとり噂話好きで基本人懐こい感じだが人によって面白いほどころころと態度が変わる。そしていつも会話の合間に仕事をしているような印象だった。

そんなMさんなりに僕の先のことを考えてくれたのだろう。

「toriちゃんはもっと役職が上の人を敬った方がいい。僕を見習いなよ」

なるほど、Mさんはかなりわざとらしいレベルで他部署の上司とかと会話するとき褒めたり機嫌をとったりしている。それで邪険にされても全然堪えた感じなくへこたれない。僕には無理だ。

「toriちゃんはやることやってても見た目がチャラチャラしてるからなぁ」

なるほど、見た目と業務遂行能力は関係ないはずだ。

「toriちゃんもう少し残業した方がいいよ」

なるほど、Mさんは作業がないのに遅くまで会社に残っていることが多い。一方僕は更新ツールの開発や作業手順の改善をしてできるだけ早くやるべき仕事を済ませて早く帰れるようにしている。仕事があるのに帰るのは駄目だが意味なく会社に残っているのが良いとは思えない。

若気の至りといえばそれまでだが、Mさんの言う事は実力と関係がない気がしてどうにも受け入れられなかった。

そうして暫く経ったある日、定期の上司との面談があった。

上司はこう言った

「君、これから先もこの会社でやっていって昇進したいのなら今のままでは駄目だ」

「具体的にはMが私に君のことをよく言ってくるんだけど、○○と○○と○○と……」

嗚呼、そうなのか。とりあえず僕の評価が悪くなっていることはわかった。

 

後日、総務のお局様ポジションの人とごはんを食べに行った。この人は「社長も逆らえない」「社内の人間関係を全部把握している」他「黒幕」「仲良くしないほうがいい」みたいなことを言われてて敬遠してる人も多かったし、本人が敬遠してる人も多かったのだが、僕からしたら性格がキツイだけで他の人が言うほど腹黒い感じもせずサバサバしてて良い人に感じていた。よくわからないが結構初期から目をかけてくれていて仲良くしていた人の一人である。

ごはんを食べながらアドバイスというか情報をもらった。曰く

「他部署から君のいる部署を見て『遅くまで残業をしてがんばっているいるM、さっさと帰る君』という見方をされている。特にMと仲のいいA、B、C辺り伝にそういう印象が広まって、それが君の上司の耳に入ってB、C辺りに頭の上がらない君の上司が『今のままでは駄目』という評価をせざるおえなくなっている」

「他の部署からしたらWeb開発の実際の業務を理解してない人が多いし内容がどうこうよりただ残業すればするほど素晴らしいという風潮がまだまだ残っている」

「これは幹部クラスにそういった風潮を好む人間がいて、逆に効率化をどんどん進めようとして支所の無駄な業務を改善していっていた幹部は少し前に他社に引き抜かれて辞めていった」

「デザイン課のトップと君は人間的に似ているが向こうは役職的には高くないが実際には『この人が辞めたらやばい』くらいの実力・実績があるし部署的意味でもかなりの権力がある。君の課は元々あった紙媒体とは別の部署なので表でいくら『これからはWebが重要だ』と言っていても実際の権力的には弱い。その中でまだ古参ではない君が実績を残しても幹部からしたら『よくわかんないけどなんかやってる』くらいの理解しかない」

「ただ、若い社員は結構Web展開を重要視してる人間が多いからこの先もっと変わる可能性はある」

「でも、今の君の上司は事なかれ主義で今のポストに就いた人間なのでよほどのことがないと革命は期待できない」

等々。

「相変わらず色々知ってますねー」「まあねー」「ねーさんから社長になんか言っといてよ(笑)」「わたしはそういうことしない主義なの知ってるだろ」とか話した記憶がある。

とりあえず、なんとなく気付きつつもスルーしていた問題が立ちはだかった。

頭の中では、会社を辞めるorひたむきに頑張る、で揺れていた。

この後の展開を箇条書きにすると

  • 結局、すぐには辞めなかった
  • 再度の部署再編成があって関東から5歳上のプランナー兼デザイナーと同期のプログラマが加わる
  • この二人がかなりの改革派で政治も上手く(関係あるかは謎だがデザイナーの人のほうが社長とプライベートでも懇意な人物だった)、関東からWeb展開の大きなプロジェクトを持って返ってきてそれを利用した部署の地位向上キャンペーンを行った
  • 二人と意気投合した結果、もう暫くがんばることにした
  • Mさんはぱっと見は相変わらずだったが発言の影響力が落ちた
  • 他部署にもいる関東組と連携して「仕事が終わったらさっさと帰る」という行動がありの風潮をある程度定着させた
  • 結果それなりに色々と改善されたが事なかれ主義の上司のところで止まって有耶無耶になった件も多かった

この二人がいる間がチャンスと思っていた僕はとにかくスキルを伸ばすことに注力していた。そうしているうちに、時が経ち二人が関東に戻ることが決まった。

会社には伝えてなかったが二人は関東に戻って少ししたら転職することを決めていた。

僕もこの頃にはもっとWeb専門のところに転職したいという気持ちが強くなっていた。

それからそんなに時が経たないうちに関東に戻った二人から「会社やめたよ、んじゃねー」てな感じで連絡が来た。

僕もその時手がけていたそこそこ大規模なサイトリニューアルが終わり次第辞める意向を上司に伝えた。「そんな気がしてた」と言われたぐらいで特に引きとめはなかった。

 

で、何事もなくすんなり退職したかというとそうでもなく使ったことのなかった有給を全部消化してそのまま辞めようとしたら「うちの会社でそんな前例は無い!駄目だ!」「非常識だとは思わないのか!」と罵られたが「認められないなら然るべきところに相談します」と言って普通に有給申請して消化しつつ退職した。

後で聞いた話だと僕が良い?前例になったおかげでちゃんと有給使う人が増えたらしい。

 

フリーランス時代

はい、フリーランス時代。と言っても当初はフリーランスになる予定は全く無かった。

「半年以内にWebデザイナーとしてどこかに再就職する」という考えだった。

そこからなんでフリーランスの流れになったかといえば、二社目の面接で話したS社長のお陰だったりする。

その会社はほぼデザイン専門でやっている小さな事務所で、S社長は40代の女性だった。面接のときにロングブーツ・ホットパンツ・黒のTシャツで登場してどう見ても20代にしか見えなかったので社員さんかなと思って名刺を見たら社長でサイトのプロフで40代ということを知っていたのでギャップにびっくりした。

内心びっくりしつつも前職での実績やスキル+特に仕事に活かされる事のなかったモーショングラフィックのFlashを見てもらいながら色々話した。なんかMG見せたとき社長のテンションが上がったのは覚えている。

そこでS社長が一言

「ねぇ、君。そんなに色々できるんだったら独立しようって考えはないの?」

と、この言葉を聞いて最初に思ったのは「あ、不採用だ」だった。で

「え、そういうのは全然考えた事なかったです。というか独立してやっていく方法を知らないです」

そう答えたら、S社長が自分が独立してフリーランスでやってそこから会社になって軌道に乗るまでの話を丁寧にしてくれた。とても興味深い話で「そういう道もあるのか」と考えると少し楽しかった。そうしてこちらからの質問にも色々答えつつ

「君の考え方はわたしから見ると独立して仕事を手がけた方が向いている」(社会人向いてないと言う事か……)

「うちは今、ほんとデザインのみでやってるのでWeb制作の他のスキルもある人材に魅力を感じるけど今の社内の体制だと正直もてあましてしまうかも知れない」(多分デザインスキルはあまり評価されなかったな……)

「時間的に余裕があるんだったら独立することについて一回じっくり考えてみてもいいと思うよ。遊びに来てくれたら何でも教えるから」(退散しろと……)

 

その日は「色々考えます」的な返答をしてそのまま帰った。

 

独立……フリーランス……数日考えた。懸念点としては僕みたいなコミュ障が営業して仕事を取れる気がしないということだった。そこがクリアできるならフリーランスでやりたい。やってみて駄目ならその時だ。

S社長は遊びにおいでと言ってたので本気にして営業の仕方についてとか聞きに行こう。

後日アポを取ろうと電話したらあっさり快諾してくれて晩ごはんがてら話をすることになった。

自分が自己アピール苦手なので恐らく営業苦手だという事、どうやって仕事を取ればいいかわからないという話をした。S社長はこんな感じで答えた

「口でする営業のイメージに引っ張られない方がいい。仕事を取りたい相手の欲しいものを予想してそれに合わせた作品と簡単なストーリーを提示しそれが合致すれば大丈夫。といっても、その感覚を掴むまでは苦労すると思う。自分はとにかく最初は作品を提示しまくったしコンペにも参加しまくった」

「フリーランスでやる気なんだったら最初はうちから案件渡すよ。それで将来うちがデザイン以外の業務を社内でやる態勢が整ったら来てもいいし」

その後も色々話し込んだ。そして僕が一言

「うん、フリーランスでちょいやってみます」

そう答えた。軽がるしすぎる感があるが本当にこんな感じで僕のフリーランス生活は始まったのだった。

 

後日、会社に顔を出して正式に始めることを伝えて社員の人とか紹介してもらってその日のうちにフリーランスとして初の案件を受注した。

案件としてはデザインは社内コンペに参加して採用が決まればデザイン担当+コーディングは僕が全て担当でプログラミングの組み込みは別の会社が担当するというものだった。

サイトのジャンルが僕が大好きなもので、なんとしてもデザインコンペ勝ち抜きたい&デザインもできることを証明したい気持ちで、ちょっと力加減がまだわかってなくてとにかく全力だった。結果、トップページ以外のデザイン案が採用された。トップページは採用案見たら今では「そういう表現もよく見るよね」といった感じだが当時としてはかなり斬新なデザインでこれには勝てないと納得した。

結局今思えば、このとき手がけたサイトが僕のフリーランス人生で最もメジャーかつずっと存在するサイトになっている。

その後は自分でSOHO関連の募集を見つけて営業をかけつつ、S社長の会社からの案件をこなすと言った感じでSOHOで運よくコーダーの継続案件がいくつかとECサイト関連の案件がとれたのでそれを基盤にやっていける手ごたえを感じていた。

S社長の会社とはどういったかたちになるかわからないがずっと長い付き合いになるのだろうとなんとなく思っていた。

ならなかった。

S社長はある日急逝した。

僕の周りではよく人が亡くなる。

 

その後も色々なことがあった。早送り

  • フリーランスになって通勤がなくなったことにより毎朝の激しい腹痛から開放された。
  • 孤独感を感じることが増えた。Twitterを始めた。
  • リアルNTR+男側からの追撃により急激な人間不信になり抑うつ状態になる。この出来事がトリガーとなり雪崩式に様々な事が崩壊する。動こうとしても全く体が動かないという状態や様々な辛い症状を体験する。この頃は睡眠時間2時間で生活していて仕事もオーバーワーク気味に請けていたのだが精神も肉体も潰れた。
  • 知人にメンタルクリニックに連れて行かれ、そこから治療の日々が始まる。
  • 全てのことが苦しくなり世界がまったく違うものに見えてくる。
  • 治療しながら以前のように動かない脳と体を嘆きつつなんとか案件をこなしていく。
  • そんなある日、高校のとき友人だった人物から「こっちに戻ってきたから飲みにいかないか?」との誘いがある。参加する事にして当日、これも高校時代何回か話した事のあるJが同席していた。Jと話をしているとJもWeb関係でフリーランスをやっていることを知る。そしてお互いの仕事の話をしていてJが「自分は営業は得意だが制作は知識はあっても苦手なので組んでやってみないか?」という話をもらった。結局その場で軽くお互いの担当する範囲を決めてJと仕事をすることになった。
  • Jと僕での新しい体制を中心に仕事をする日々が始まった。
  • 徐々にうつ病の症状は軽くなっていた。しかしある一定の症状より回復はしなかった。Web制作をやりながら別の職種を半年~一年くらいのスパンで掛け持ちし始める。何か刺激というか起爆剤のようなものを無意識に求めていたのだと思う。
  • 官公庁関連のSE、服のデザイン・サンプル縫製、学校の講師のアシスタント兼Web担当等を体験した。結論としてはどれも理由は違えど自分には向いてなかったが仕事に使える知識としては無駄にならなかった。
  • 他にコンペ等入賞のきっかけ等で関東の人と仕事をする機会が増えた。

 

……他にも事実は小説より奇なりのような出来事が度々訪れ過ぎ去りつつ、それなりに生き延びた。Jは本当に良い相棒で感謝しかない(たまに無茶なスケジュールで仕事をとってきて死にそうになることはあったが)。

そんなある日、Jが体調不良を訴えて病院に検査に行った。Jは健康オタクで病院嫌いだったので、検査?珍しいな、と思ったがそこまで心配してはいなかった。

Jの検査結果が出るのに二週間程度の時間を要した。

そして診断の結果、Jは誰もが知っているようなポピュラーな病名と治療をしなければ余命数ヶ月、治療しても助かる確率は5割以下という事実を告げられた。

 

Jは仕事人間で入院しながらも仕事を取ってきては僕に渡してくれた。後で知ったのだが「torihitoは俺がこのまま駄目だったときに一人でやっていけるのか心配でならない」とよくぼやいていたらしい。

Jの闘病の日々は続いた。治療は成功したと聞いて一安心していた。

ある日「ソーダ味のアイスが食べたい」というLINEがJから届いた。見舞いがてらアイスを買っていき世間話をしていたらJからUSBを渡された。

「この中に俺のやっていた仕事の情報が全部入っている。俺が駄目だったときはNさん(Jの仕事仲間で僕とも知り合い)と二人で引き継いで欲しい」

と言われた。これがJと面と向かって話した最後の日だった。

それから一ヶ月もしないうちにJは旅立った。原因はとても珍しい事例の合併症らしい。

フリーランス時代/現在

Jの仕事を引き継いでそこまでの年月は経っていない現在、まだ僕はフリーランスとして生存している。

何度も違うルートに進むポイントはあったがフリーランスとしての道を進んでいる。

現在、今まで生きてきたなかで最悪の状況だったりするが生きている。

嗚呼、歳上の男性に嫌われる問題。

少し前に取引先の人に酷い勘違いをされ、相談した弁護士曰く「悪質であり確実に刑事事件で立件できる」というレベルの仕打ちを受けた。

以前から僕の事を良く思っていないことには気づいていたのでそれなりの手は打っていたが駄目だった。

結局いくつかの僕の中では重要な理由により訴訟を起こさないことを選択した。そして取引先から突きつけられた「とある条件」を飲んだ事により表向きの嵐は去った。

しかしその「とある条件」が普通の人からすればとても受け入れることができないであろうものであること、一連の犯罪レベルの行為による精神的ショックで客観的に見て酷い体調であり、体調は徐々に悪化している。

このことについては他の夢日記で書くかもしれない。

 

 

とりあえず『少女たちは荒野を目指す』やるまでは生きる。生存する。